杉内引退!生い立ち~鹿実・三菱重工・プロ生活の全軌跡【妻と子どもは?】不倫騒動を乗り越えて

プロ野球・読売巨人軍の杉内俊哉投手が、今季限りで現役を引退することが分かりました。

2015年に右の股関節痛に見舞わえてオフに手術。

その後も、左肩痛によって3年間もの長い期間1軍登板がなかった杉内投手。

ついに、ボールを置く決断を下しました。

近日中に都内ホテルで会見を行う予定です。

松坂世代の選手がまた一人、ユニフォームを脱ぎました。

スポニチの取材に次のように答えています。

17年間のプロ野球人生に別れを告げるときがきました。これまでの僕の野球人生に関わってくださったすべての方々に感謝しています。

そして、どんなときでもたくさんのご声援をくださったファンの皆さま、本当にありがとうございました。折れそうな心を、何度も支えてくれました。

引退の理由は体です。

もう、限界でした。

ホークス時代に痛め、じわじわと悪化していった右の股関節に、それをかばいながら投げていたことで左肩にも痛みが出ました。

15年途中に1軍を離れてから、約3年間、1軍のマウンドを目指してきましたが、上がることはできませんでした。

昨年のオフには、球団として支配下登録から外し育成選手として契約する選択肢もあったと思います。

それでも、僕の背番号18への強いこだわりを理解し、支配下登録のままで復活することを待ち続けてくれました。

周囲からの批判もあったと思います。

マウンドで恩返しすることができず、申し訳ない気持ちでいっぱいです。

ホークスと巨人、2チーム、2つのリーグでプレーすることができました。

両チームで日本一を達成しましたし、数多くの思い出があります。

たくさんの出会いにも恵まれました。

ホークスでは王貞治監督(現ソフトバンク球団会長)の下で一緒に戦うことができました。

巨人に移籍することを電話で報告した際に「巨人の野球を勉強してきなさい。頑張って」と快く送り出してくださった言葉は、今でも耳に残っています。

巨人では長嶋茂雄終身名誉監督に投球を見ていただくことができました。

移籍1年目のキャンプでブルペン投球を視察し「その背番号(18)でチームを引っ張ってくれ」と声を掛けてくださいました。

体を触られ、声を掛けてくださったときには鳥肌が立ちました。

日本球界の象徴である「ON」の下で野球をできたことは、僕の人生の誇りです。

印象深いゲームは2つあります。

ホークス時代の2010年9月25日に札幌ドームでダルビッシュと投げ合い、1―0で完封勝利を収めた試合。

直前までふがいない投球が続いていたため、試合後に感極まって泣いてしまいました。

そして巨人時代の2012年5月30日、交流戦の楽天戦で田中将大と投げ合い、東京ドームでノーヒットノーランを達成した試合です。

両方の試合で素晴らしい投手と投げ合い、勝つことができたので、達成感は大きかったです。

最後になりますが、家族がいなければ、ここまで続けることはできなかったと思います。

改めて「ありがとう」と感謝の思いを伝えたいです。

子供には、もう一度、マウンドで投げる姿を見せてあげたかったですが、次の夢、目標に向かっていく父親の姿を見せることができればいいなと思っています。

 

杉内 俊哉(すぎうち としや)

生年月日 1980年(昭和55年)10月30日
年齢 2018年9月現在、37歳
出身地 福岡県大野城市
身長 175 cm
体重 82 kg
小学校 大野城市立大野小学校
中学校 大野城市立大野中学校
高校 鹿児島実業高等学校
社会人野球 三菱重工長崎

選手情報

投球・打席 左投左打
ポジション 投手
プロ入り 2001年 ドラフト3位
福岡ダイエーホークス
年俸 3,000万円+出来高(2018年)
五輪出場 2000年(4位)
2008年(4位)
WBC出場 2006年(優勝)
2009年(優勝)
2013年(ベスト4)
高校 鹿児島実業高等学校
社会人野球 三菱重工長崎

生い立ち~プロ入りまで

杉内選手のご家庭は母子家庭で、お母さまが杉内選手を身ごもって妊娠9か月の時に離婚されています。

そんなこともあって、非常に家族思いの杉内選手は、プロ入りの時の契約金でご家族にマンションを購入したというエピソードも持っています。

 

実はサウスポーの杉内投手ですが、字を書いたり、食事などは右利き。

生まれつき左利きで、生活に不便がないようにと小さいころから右も使えるようになっている人も多いのですが、実は杉内投手の場合は少し異色。

もともと右利きなのに、お母様が「初恋の人が左利きだったから」という理由で左投げを教えたというのです。

打つ方は後から左打ちにする人も多いのですが、投げる方は珍しいですね。

 

小学4年生で少年野球を始めた杉内少年。

6年生でピッチャーに転向し、エースとして全国大会に出場しています。

中学時代は、硬式野球チーム(大野城ガッツ)に所属し、エースとして全国大会準優勝に輝いています。

 

高校は、多くの強豪校から誘われ、選んだのは地元の野球名門校・鹿児島実業高校でした。

鹿児島実業高校は、杉内投手が在籍した3年間に3年連続で夏の甲子園大会に出場しています。

杉内投手自身も、2年、3年でエースとして出場。

2年時は、1回戦で、浜松工(静岡県)に2-4で敗れていますが、

3年時では、「南国のドクターK」と高い評価を受け、1回戦の八戸工大一(青森県)との対戦で、ノーヒットノーランを達成しました。

2回戦で、春夏連覇を達成する松坂大輔を擁する横浜(東神奈川)と対戦し、0-6で敗退。

大会後には、第3回AAAアジア野球選手権大会日本代表に選出されて、見事に優勝を果たしています。

 

社会人野球~オリンピック出場

高校からプロ入りという噂もありましたが、卒業後は、三菱重工長崎に就職し、社会人野球の道を進みます。

 

2000年 都市対抗野球大会出場。

シドニーオリンピック野球日本代表に選出され、オリンピック初出場を果たします。

シドニーはアマチュアとプロの混合チームで出場した大会で、アテネ以降はオールプロとなったので、アマチュアが出場した最後の大会です。

 

2001年 アマチュア界屈指のサウスポーとして活躍。

三菱重工長崎は日本選手権大会で初優勝に輝きます。

 

プロ入り後

2001年 ドラフト会議で地元九州の「福岡ダイエーホークス」から3位指名を受けて、ついにプロ入りを果たしました。

背番号は、目標とする工藤公康投手と同じ47番

当時の報道によると、推定契約金は1億円!

この契約金で、母・姉・祖父母のそれぞれにマンションを購入したということです。

家族思いなのですね~。

 

2002年

シーズン2勝に終わるものの、フレッシュオールスターゲームに出場するなど将来を嘱望されていました。

2003年

先発ローテーションに定着して10勝をあげて、リーグ優勝に貢献しました。

日本シリーズでも阪神から2勝を挙げて、シリーズMVPを獲得しています。

2004年

前年の活躍から、エースとしての成長を期待されたこの年ですが、とんでもないことでシーズンを棒に振ってしまいます。

6月1日 ロッテ戦

2イニング7失点というふがいない内容で降板した直後のこと。

悔しさのあまり、ベンチで大暴れ。

ベンチを素手で殴打して両手の小指付け根を骨折してしまいます。

全治3か月の大けがを負ってしまいます。

プロの投手が利き腕を痛めつけるようなことをするなどということは、プロとしての自覚がない!

と厳しい批判にさらされました。

球団から罰金100万円(後に500万円に増額!)・謹慎10日を科せられます。

王貞治監督(当時)のコメント

「戦列を離れなければいけない。悔しさは誰にでもある。

だが、何の為に選手としてやっているのか。

絶対にやってはいけないことだ」

2005年

前年の愚かな行いでシーズンの大半を棒に振ってしまった反省もあり、この年はシーズン開幕から猛ダッシュ!

4月、5月と2ヶ月連続で月間MVPを獲得し、シーズン200奪三振(218)を記録。

18勝、防御率2.11という好成績で、

初の最多勝・最優秀防御率のタイトルを獲得しました。

さらに、パ・リーグの左腕投手としては史上初となる沢村賞も受賞。

そして、パリーグの最優秀選手(MVP)にも選出されるという、生涯最高のシーズンとなりました。

見事に前年の汚名をそそぎましたね。

2006年

シーズン前に開催された、ワールド・ベースボール・クラシック日本代表に選出され、優勝。

シーズンは前年の疲れか、はたまたWBCの影響か振るわず、規定投球回数にも届かない不本意なシーズンとなりました。

2007年

前半戦終了時点ですでに、12勝をあげて「初の20勝か!」と期待されましたが、最終的には15勝。

それでも、ローテーションの中心として活躍しました。

このころから、1年ごとに好成績と不調を繰り返す「隔年で活躍する選手」とも呼ばれ始めます。

2008年

「隔年で活躍する選手」の汚名をそそぐ2年連続の2桁勝利を達成するも、10勝どまり。

しかし、シーズン中に行われた北京オリンピック野球日本代表に選出されての成績でした。

さらに打線の援護に恵まれず勝ち星こそ伸びませんでしたが、最多奪三振のタイトルを獲得しています。

2009年

2大会連続でワールド・ベースボール・クラシック日本代表に選ばれます。

貴重な中継ぎ左腕として5試合に登板し、無失点どころか、無安打に抑える完ぺきな投球を見せ、日本の世界連覇に大きく貢献しました。

決勝戦でも、好投した先発・岩隈の後に打者1人に対してだけでしたが、見事に抑えて、ダルビッシュにつないだ投球は見事でした。

2年連続で最多奪三振のタイトルを獲得し、シーズンオフの契約更改では、投手では球団史上初となる年防3億円で契約しました。

2010年

4年連続2桁勝利となる16勝、3年連続の200奪三振など安定感のある投球で活躍。

オールスターゲームでは、自身初となるファン投票1位での選出となりました。

2011年

7月9日 ロッテ戦で、通算100勝を達成

自身初となる防御率1点台を記録するも勝ち星が伸びずに、5年連続の2桁勝利はならず。

しかし、日本シリーズ第7戦では7回無失点と好投しチームを日本一に導きました。

この年のシーズンオフにFA権を行使し、12月19日に読売ジャイアンツへの移籍を発表します。

杉内投手は子供の頃からの巨人ファンで、特に当時の巨人監督を務めていた原辰徳の大ファンでした。

地元九州を離れる葛藤はあったものの、4年連続2桁勝利の活躍にもかかわらず、球団が年俸への評価が十分ではなかったことも要因としてあったといわれています。

巨人と結んだ契約は

4年の長期契約で総額20億円

しかも、伝統的に右腕の本格派がつけてきたエースナンバーの18を受け継ぐことになりました。

巨人の18番

スタルヒンに始まり、前川八郎、中尾輝三、近藤貞夫。

その後は、

藤田元治

堀内恒夫

桑田真澄

という錚々たるメンバーが背負ってきた栄光の背番号です。

その歴史の深さはあまりにも重く、桑田が退団後も5年間にわたって空き番号となり、誰もつけたがらなかったといわれています。

2012年

4月1日 移籍後初先発となったヤクルト戦で勝利投手となります。

そして、杉内投手が思い出の試合として挙げたこの試合。

5月30日の楽天戦(東京ドーム)

プロ野球史上75人目(86例目)のノーヒットノーランを達成しました。

ノーヒットノーランはたびたび達成されている記録ですが、この試合で杉内投手は、9回二死までパーフェクトゲームを継続。

1994年の槙原投手(巨人)に次ぐ18年ぶり、史上16人目の達成かと思われましたが、代打・中島俊哉にフルカウントから投じたボールは低めに外れ、パーフェクトゲーム達成を逃しました。

個人的には、1ボール2ストライクからの4球目。

ストライクでもおかしくないボールだったかな~。

ノーヒットノーラン達成の見逃し三振にとった最後の1球とほぼ同じ球だったんじゃないかな~と。

それでも、高校時代の甲子園と、プロ野球でノーヒットノーランを達成したのは、史上初の快挙でした。

8月に左肩違和感によって登録抹消されるも、

12勝・防御率2.04・172奪三振で史上初となる両リーグでの最多奪三振のタイトルを獲得して、移籍1年目を終えました。

2013年

第3回WBC日本代表選手に選出されて、出場選手唯一の3大会連続出場を果たします。

シーズンは11勝6敗で2年連続で2桁勝利を達成します。

2014年

7月12日 阪神戦で史上最速の2000奪三振を記録。

移籍後、3年連続の2桁勝利を達成します。

2015年

5月終了時点までに5勝をあげ、好調なシーズンを送っていましたが、股関節痛で7月23日に戦線離脱します。

この股関節痛が、その後も杉内投手を苦しみ続けます。

痛みをかばって投げることで左肩に痛みがでるという悪循環に陥り、結局はそのまま復帰することなくシーズンを終えました。

シーズンオフの契約更改では、4年20億円の契約が切れて新たな契約を結びました。

その契約の内容は、

1年契約で、年俸5億円から、90%ダウンの、年俸5000万円(プラス出来高)

プロの世界の厳しさを思い知ります。

2016年

プロ・独立リーグ交流戦で実践マウンドに復帰。

しかし、公式戦登板なし。

2017年

公式戦登板なし。

2018年

公式戦登板なし。

懸命のリハビリも、ついにマウンドに戻ることなく、9月12日に引退。

年度 勝利 敗戦 奪三振
2002 2 2 46
2003 10 8 169
2004 2 3 51
2005 18 4 218
2006 7 5 114
2007 15 6 187
2008 10 8 213
2009 15 5 204
2010 16 7 218
2011 8 7 177
2012 12 4 172
2013 11 6 149
2014 19 6 145
2015 6 6 93
2016 0 0 0
2017 0 0 0
2018 0 0 0
合計 142 77 2156

タイトル・表彰

最多勝 1回 (2005年)
最優秀防御率 1回 (2005年)
最多奪三振 3回 (2008年、2009年、2012年)
最優秀投手 2回 (2009年、2010年)
最優秀選手 1回 (2005年)
最優秀投手 2回 (2009年、2010年)
沢村賞 1回 (2005年)
ベストナイン 1回 (2005年)
日本シリーズMVP 1回 (2003年)
日本シリーズ優秀選手賞 1回 (2011年)
セ・パ交流戦MVP 1回 (2009年)
セ・パ交流戦優秀選手 1回(2012年)
月間MVP 9回
オールスターゲーム出場 7回

珍しい記録としては、救援勝利が1つもありません。

つまり、勝ち星はすべて先発してのもの。

これは、通算100勝以上でプロ野球史上、杉内投手だけの記録です。

 

杉内投手の奥さん・子ども

杉内投手は、プロ2年目のシーズンオフに、結婚されています。

お相手は、「エントリーサービスプロモーション社」という福岡の人材派遣会社を通して九州のローカル番組でレポーターなどの仕事をしていました。

「とべとべホークス」という番組のレポーターとしてホークスの選手であった杉内投手と知り合いました。

上葉 えりか(うえば えりか)

生年月日 1980年(昭和55年)9月23日
年齢 2018年9月12日現在、37歳
出身地 福岡県大牟田市

杉内投手とえりかさんの出会いは、プロ1年目の2002年。

えりかさんが杉内投手にインタビューをしたときです。

杉内投手が、えりかさんに一目惚れしてアタックし、交際がスタート。

プロ入り2年目に2桁勝利を達成したことで、プロでやっていく自信を得て、結婚に踏み切ったそうです。

 

お子さんは、男の子が1人。

杉内 咲哉(すぎうち さきや)

品のいい顔立ちのかわいらしい男の子ですね。

詳細は不明ですが、現在は小学校3年生ということです。

野球をやっているのかどうかもわかりませんでした。

 

杉内投手の不倫

家族思いで愛妻家として有名だった杉内投手の不倫がスクープされたことがありました。

2013年3月

WBC日本代表に選出され、宮崎県で合同合宿を行っていたときのこと。

杉内投手は、福岡にいる愛人をホテルの部屋に呼び寄せたという記事がフライデーに掲載されます。

この不祥事に巨人の原沢球団代表が激怒。

球団の事情聴取に対して、本人は記事の内容を認めました。

 

杉内投手は深く反省し

「申し訳ありません。どんな処分でも受けます」

と謝罪し、100万円以上といわれる罰金を科されたようです。

選手生命はともかくとして、愛妻家のイメージは一気に崩壊。

そりゃあ、愛人の存在が明らかになってしまったのですからね。

その後、離婚の危機とも噂されましたが、現在も離婚はされていないようです。

 

長い間の選手生活、本当にお疲れさまでした。

今後は、指導者として球界に貢献されることを期待しています。


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