吉田潤喜の両親がスゴイ!【妻と子供情報も】年収から生い立ちまで

全米、日本で販売され世界中の人に愛用される「吉田ソース」の創業者、吉田潤喜氏。

日本人ではないのになぜか、アメリカではイチローより有名な日本人。

その両親がスゴイのです。

そして奥さんとのなれそめや、人生を変えた娘さんの病気など、エピソード満載のがむしゃらに生き抜いた人生を調べてみました。

吉田 潤喜(よしだ じゅんき)

旧名 吉田 準輝
生年月日 1949年(昭和24年)12月7日
年齢 2018年5月現在、68歳
出身地 京都府京都市南区

吉田ソース創業者にして、ヨシダグループ会長

 

吉田潤喜の生い立ち

在日コリアン2世として京都に生まれた吉田潤喜さん。

祖父は、日韓併合時代に韓国人として初めて日本の議員(京都市議会議員)となったほどの人物だったそうです。

その息子である父親と、15歳で結婚した母親の間に生まれた7人兄弟の末っ子です。

7人兄弟とは最近ではなかなかない大家族ですね。

 

一番上のお兄さんは、12歳年上。

2人目から6人目までは全員女の子でした。

 

戦後間もないころに生まれ、生活は苦しく、売れないカメラマンの父の代わりに手広く商売をする母親が家計を支えていました。

4歳の時には、すぐ上のお姉さんがふざけて、目ん玉のど真ん中に縫い針を刺してしまい、右目を失明してしまいます。

 

在日コリアンであること、目が見えないことなどが原因でバカにされる事も多かった幼少期でしたが、一方的にいじめられるような少年ではなく、腕っぷしと度胸でガキ大将となり、ケンカにあけくれていたとか。

 

小学校で柔道を習い、中学入学と同時に空手を習い始めます。

もちろん動機はケンカに負けないため。

小学生時代に中学生と殴り合いのけんかをしてしまうような悪ガキで、お母さんも何度も何度も学校に呼び出されては注意されていたといいます。

本人はどこ吹く風だったようですが。

 

強くなりたいという一心から空手に打ち込み、最終的には八段にまで昇進するほどになりましたが

当時の立命館大学の空手部は全国的にも有名な強豪で、京都の町ではヤクザもよけて通るような存在でした。

 

そんな立命館大学空手部に憧れて、あるときから勉強に打ち込んだそうです。

しかし、立命館大学に受験するも不合格。

19歳にしてアメリカに単身渡ることを決意します。

 

どうやら立命館大学に合格するのは難しい。

だからといって、このままではろくな未来は待っていないだろう。

すごくかわいがってもらっていた高校の先輩がある組長の息子だったそうで、きっと日本にいたらヤクザになってしまう。

そんな思いを抱きつつ、とにかく日本を脱出しよう。

そんな一心でした。

 

アメリカを選んだのも強い国だから。

やはり強いものへの憧れが大きかったのですね。

 

1969年1月24日

アメリカに旅立つ潤喜さんへのお母さんの言葉は

「あのな、刑務所だけには入ったらあかんで」

さぞ心配だったのでしょうね~。

 

そんな母の気持ちを知って、アメリカで成功するまでは日本の地は踏まないと心に誓ってアメリカ・シアトルに渡った吉田潤喜さん。

往復で購入したチケットの帰りの分を売ってしまいます。

そのお金で車を買い約7カ月間は、車の中で生活していたのです。

 

シアトルビーチの公衆便所のそばにある空き地に車を止めて寝泊まりし、仕事は現地の邦字新聞を見て、芝刈りのバイトから始めました。

給料は週給で90ドル。

何とか生活できるくらいの収入を得て、まず最初に考えたことは、学校に入って就学ビザを取得すること。

何かを学びたいというよりも、このときの吉田潤喜さんは、いわゆる不法移民。

移民局に見つかれば、不法労働によって強制送還されてしまいます。

実際に2回ほど移民局に捕まったそうですが、周囲の人の助けで切り抜けることができたとか。

 

その日暮らしの苦しい毎日に変化が訪れたのは、中学から続けていた空手によってでした。

ある日、知人の空手道場を引き継がないかという話がもちかけられ、当時ブルース・リー人気でブームであった空手道場の師範として空手を教え始めました。

細かいことを言うと、ブルース・リーは空手ではないですが、まあアメリカで空手ブームだったことは事実です。

 

英語を学ぼうと入学したコミュニティカレッジでも、体育の授業に空手が採用されていて、先生の助手を務めながら、学生たちに空手を教えて謝礼をもらったり、賞金稼ぎの空手トーナメントに出場するなどしながら、お金を稼ぎました。

 

1976年にワシントン州警察逮捕術主席師範を任され、ついに

1977年にアメリカ国籍を取得。

晴れてアメリカ人となったのです。

 

1982年には、オレゴン州警察学校に移籍。

これで一安心かと思いきや、1980年に入ってからオイルショックによってアメリカが不景気に陥ります。

その影響で、空手道場の生徒数が、一気に3分の1までに減ってしまい、みるみるうちに経営が苦しくなります。

 

そんな時期のクリスマス。

生活が困窮し、生徒から贈られたクリスマスプレゼントのお返しさえも出来なくなってしまいます。

そこで思いついたのが、お金をかけないでプレゼントを贈る方法。

母親が作っていた美味しいソースの味を再現して贈り物にしたらどうだろう?

電話で母にレシピを聞いて、8時間煮込んだ焼き肉のたれをプレゼントするとこれが大好評!

お金を出してでも欲しいという人が続出し、

「これは商売になるのではないか?」

 

ビジネスでアメリカンドリーム

焼肉屋を営んでいた母親が作っていたソースは醤油ベースのタレ。

当時のアメリカでは醤油ベースの味は珍しいものでした。

私も肉に最もあう調味料は醤油であると思っています。

 

この味がアメリカ人に大いに受けました。

母のレシピを改良し、醤油ベースのバーベキューソース「吉田グルメのたれ」を考案し、1982年オレゴン州に吉田ソース会社を創立します。

 

いざ商品を売ろうと販売店に持ち込んでも最初は相手にされず、それならばと、転倒での実演販売の許可をもらいます。

しかし、それでもなかなか売り上げが伸びず、そこで思いついたのは、着物、下駄、カウボーイハットという珍しいファッションで実演販売を開始

大声を出しながら商店街のおばちゃんのようにセールストークを繰り広げ、現地の人の心を惹きつけていきました。

 

販売開始の翌年には、当時2店舗しかなかったコストコと提携し、販売額を急激に伸ばしました。

1本でも多く売りたくて毎日10時間、コストコで実演販売を行いました。

 

無我夢中の時代。

吉田潤喜さんは、この時代のことを次のように語ります。

頑張ったな~と思い出になるようなときは本当に頑張っていない。

本当に無我夢中でやっているときは後で考えても何をやっていたのかわからないものだ。

 

現在ではグループ全体での売上が250億円。

ヨシダソースをはじめ、各ブランドソーダ委託ボトリング、リゾート、ショッピングセンター、アパート開発、不動産、レストラン事業などでグループ会社を構成しています。

 

2005年Newsweek誌日本版で

「世界で最も尊敬される日本人100」に選ばれました。

日本人じゃないぞっていう突っ込みはともかくとして、日本生まれであることは間違いないし、在日コリアンですので半分日本人ということで。

 

主な受賞歴など

2001年 米政府より、優秀中小企業家賞を受賞。
2003年 インテル、フェデックス、ヒューレッド・パッカードやAOLなどと並んで中小企業局(SBA)の「殿堂」入り。
2010年 平成22年度外務大臣表彰
2011年 アメリカ赤十字から、フィランソロピスト(慈善家)オブ ザ イヤーを受賞。
2012年 オレゴン日米協会から世界の市民賞を受賞。

 

吉田潤喜の父親

風景の写真が好きで、人物を撮るのが大嫌いなカメラマンだったという父。

毛布とカメラを持って山に写真を撮りに行くと、何日も家に帰ってこないような人だったといいます。

商売気がまったくなく、儲けようという気がないので、個展で褒められると、ただであげてしまうようなこともあり、写真館を3度も潰してしまいます。

人を疑うことを知らない敬虔なクリスチャンだった父は、生活が苦しくとも

「仕事も食べ物も、神さんが何とかしてくれるから大丈夫」

と言って、生活のためにお金を稼ごうとしない。

そのために母親が汗水たらして必死に働いて7人の子どもたちを育てたのです。

ある日、潤喜さんが父親に向かって

「神さんっておふくろこのことやないんか?」

というと一言

「お前はまだ信心が足らん!」

 

そんな父を、潤喜さんは認めることが出来ず、疎遠になったまま73歳で他界されました。

葬儀のためにアメリカから帰国した潤喜さんは、そこで初めて父の本当の姿を知るのでした。

教会の周りには数えきれないほどの花輪が並び、中には知り合いだったとは家族の誰も知らなかったような著名人から贈られた花輪もありました。

そして、参列者から聞いた父親のエピソードに次のようなものがありました。

 

若い頃に、近所の若者が無免許運転をして、父をバイクに轢いて足を骨折したことがあったそうです。

無免許運転で人身事故を起こせば、重い刑罰が待っています。

それを危惧した父は

「はよ、行け。誰にも言わんから逃げえ。

はよせんと、お前の人生終わりになるぞ」

と言って逃がしたうえに、近所の人たちにも口止めをして、警察にも誰に惹かれたのかわからないということで押し通したそうです。

人身事故をもみ消したことの是非はともかくとして、私欲とは無縁で自分のことより人のことを生涯を通して実践してきた敬虔なクリスチャンだったのです。

 

吉田潤喜の母親

お金儲けに興味がない夫と7人の子どもたちのために、家族を支え続けた吉田潤喜さんの母親。

京都駅すぐそばの商店街で、

洋服屋

靴屋

アイスキャンデー屋

お好み焼き屋

喫茶店

雀荘

焼き肉屋

など次から次へといろいろな商売に手を出していました。

 

とにかく、好きとか嫌いとかではなく、今も受けるためには何をやったらいいのかを日々追い求めていたのでしょう。

後の吉田ソースの元となる焼き肉のタレを考案したのもこの母親でした。

 

パワフルでエネルギッシュな母で、暴れん坊の潤喜さんが小学生の時に中学生にケンカで負けて帰ってくると、「もう一回行ってこい!」とけしかけ、自らも相手の家に乗り込み「中学生が小学生に何さらすんじゃ!」と怒鳴りこんだというから相当なものですね。

 

そんな母も、潤喜さんの将来を憂いて、高校卒業後も日本にいたらまずいと考えていました。

母は、母国である韓国に留学させたかったようですが、潤喜さんがどうしてもアメリカにわたりたいというので、その旅費を用意したのも母でした。

 

アメリカへの往復航空券は約50万円。

当時の大学卒サラリーマンの年収の倍以上という金額でした。

今の大卒初任給が18万円程度なので、今でいえば400~500万円くらいの価値でしょうか?

 

さらに当座の生活費用として、500ドル(当時の18万円)

1ドル360円の超円安時代ですので、これだけのドルを用立てするのはそう簡単なことではありません。

 

必死にためた貯金をはたいて、それでも足りない分は、近所を駆けずり回って借金までして用立てたのです。

まさに吉田潤喜の成功はこの母のおかげであったのです。

 

吉田潤喜の妻

吉田潤喜さんは、アメリカで結婚されています。

奥さんのお名前は、

リンダ・マクファレンさん。

吉田潤喜さんは、アメリカで吉田ソースで大成功をする前に大学へ通っていました。

その大学で一目惚れして、なんと2週間後にプロポーズ。

遠い日本から来た貧乏な東洋人にいきなりプロポーズされて、そう簡単にはYESとはいえませんよね。

 

しかし、そこは押しの一手。

なんと、自分の手にタバコで根性焼きして、「YES言うまで離さんぞ」と迫ったとか。

 

本人も認めていますが、

もう、脅迫ですわ

あまりの強い押しに押し切られたのか、一途な人間性を認めてもらったのか、リンダさんからYESの返事をもらいました。

当然ながらリンダさんの父親は猛反対!!

そこも押しの一手でついにリンダさんとの結婚を果たしました。

 

吉田潤喜の子どもたち

吉田潤喜さんのお子さんは、娘さんが3人。

アメリカに住む一般人のため詳細な情報はあまりないのですが、10年前の2008年のインタビューで次のように答えています。

愛車は、リンダはブルー、僕はレッドのプリウス。

長女は結婚して、3歳と5歳の息子がいる。
(2018年現在で、13歳と15歳?)

次女は、不動産のディーラー。

末っ子は芸術肌で、大学出た後ハリウッドでも難関といわれるCGの学校で勉強中。

このインタビューから10年がたっていますが、今現在はどうなっているのでしょうか?

 

ちなみに、当時の自宅は、15万エーカー(2万5000坪)の敷地に、6つの建物があるという豪邸。

2万5000坪って想像つきにくいですが、東京ドームの約1.7~1.8倍くらいです。

 

この広大な豪邸に、お子さんが3人とも成人して家を出たために、奥様とふたりだけで住んでいるのだとか。

いつか孤児院とか、子どものための憩いの施設として地元に寄附したいと思っているのだといいます。

 

吉田潤喜をビジネスに向かわせた運命の出来事

結婚して1年後に誕生した、長女のクリスティーナちゃん。

ところが重い病気にかかって、緊急入院してしまいました。

幸いにして一命をとりとめ、その後も健康に過ごしていますが、当時は貧乏生活で保険には未加入。

 

アメリカでは日本のような健康保険制度はなく、任意保険に加入していないと恐ろしく高額な医療費を請求されるのが当たり前。

保険に加入することもできない貧民層は、満足な医療を受けることもできなかったのです。

 

どれだけの高額になっても娘を助けたいという一心で、5日間、5人の専門医がつきっきりで治療してもらいました。

このときに、請求されたのは

250ドル

あり得ない価格ですよね?

 

病院が貧しい移民であることを気遣って支払える範囲の請求にとどめたのです。

このとき、

「絶対にこの恩返しをする! そのためにビジネスをしよう!」

と決意したそうです。

 

ビジネスで成功し、今では、シアトル子供病院の姉妹病院も含め、9つのチャリティー団体の理事を務め、慈善事業への寄附や、財団設立に努めています。

まさしく、アメリカンドリームをかなえてくれた国への恩返しなのです。

 

吉田潤喜の年収

年商250億を超えるようなグループ会社の会長ですので、普通に考えたら年収1億はもらっていてもいいのではないかと思われます。

会社の年商と役員報酬は必ずしも比例はしませんが、メディア出演や、本、DVDの売上なども副収入としては十分すぎるくらいでしょう。

資産は数百億円ともいわれていますので、少なく見積もって

年収 1億円

いや、2億円くらいかな?

 

吉田潤喜の著書

吉田潤喜会長が人生で大事にしている7つの法則について書かれている本です。

ちなみに7つの法則とは、

「エネルギーの法則」

「パッションの法則」

「チャンスの法則」

「アトラクションの法則」

「成長の法則」

「恩返しの法則」

「成功の法則」

の7つです。

 

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