三杉里の奥さん・子ども【通算700勝への道のり】

最近、相撲界の話題といえば貴乃花親方の反乱。

その貴乃花親方は、かつて貴花田という四股名で活躍していたことをご存知のことと思います。

このころ「貴花田キラー」といわれ、「土俵際の魔術師」と呼ばれた力士の波乱万丈の人生を紹介します。

 

三杉里 公似(みすぎさと こうじ)

生年月日 1962年(昭和37年)7月1日
年齢 2018年3月現在、55歳
四股名 岡本 公似 → 三杉里 公似
本名 岡本 公似
出身地 滋賀県甲賀郡信楽町
現・滋賀県甲賀市信楽町
中学 信楽中学校
高校 信楽工業高校(現・信楽高校)窯業科
身長 185cm
体重 159kg
血液型 A型
趣味 映画、音楽鑑賞、ゴルフ、格闘技観戦

現役時代の成績

所属部屋 二子山部屋
得意技 右四つ、寄り、上手投げ、突き落とし
最高位 東小結(1992年9月場所)
生涯戦歴 700勝709敗2休(118場所)
幕内戦歴 367勝428敗(53場所)
優勝 十両優勝1回
敢闘賞1回
初土俵 1979年1月場所
入幕 1988年5月場所
引退 1998年7月場所
金星 6個(北勝海2個、旭富士1個、曙3個)

幕内での勝利が367勝に留まるものの、通算勝利数700勝というのはとても立派な数字ですね。

ちなみに、通算勝利数歴代1位は、白鵬の1066勝(2018年3月場所終了時点)

貴花田は後に大横綱・貴乃花となりますが、幕内勝利数が701勝。通算処理数が794勝です。

 

三杉里の生い立ち

信楽焼で有名な滋賀県甲賀郡信楽町の出身。

陶芸家もよく出入りする陶芸燃料商の三男として産まれたこともあり、一時は陶芸家を目指したこともありました。

高校ではレスリング部に入部。

 

その大きな体格を生かしてメキメキ上達し、1年生でグレコローマンスタイルでインターハイ出場。

さらに国体にも出場するなど、オリンピック出場さえ目指せるほどの逸材と噂されていました。

 

しかし、その才能に目をつけたのが、父親の知人である元幕下力士の柴田。

その柴田が、二子山部屋所属の12代荒磯(元小結・二子岳)の友人であったことから、その素質の高さが二子山部屋の知るところとなります。

大相撲では中学卒業してすぐに入門する弟子も多く、高校1年生の岡本さんは中退して二子山部屋に入門します。

 

ちなみに、母親はせめて高校を卒業してからと、最後まで反対したそうです。

まあ、普通の母親はそうですよね~。

レスリングでも将来有望だったのですから、大学から社会人までレスリングを続けてオリンピックを目指すという選択肢もあったと思います。

 

現役力士時代

大相撲に入門すると、半年間の相撲教習所で学びます。

このときの同期には、後の横綱・双羽黒となる北尾がいて、その北尾と岡本が相撲教習所卒業時に優秀賞を受賞しています。

 

初土俵

1979年(昭和54年)1月場所

番付外同士の取り組みで、2勝1敗の成績でした。

 

続く3月場所で、初の番付となる西序ノ口の15枚目で、本名「岡本」として出場します。

5勝2敗と大きく勝ち越し、その後も順調に番付を上げていきます。

 

1980年(昭和55年)11月場所 四股名を「岡本」から「三杉里」に改名

これは、兄弟子の2代目・若乃花の前名である「若三杉」より「三杉」

故郷である「信楽の里」あるいは同部屋の横綱「隆の里」の「里」から取ったといわれています。

 

新十両

1984年(昭和59年)5場所を西幕下3枚目で5勝2敗の好成績を残し、翌7月場所に、21歳で新十両へ昇進します。

相撲界では十両からが関取と名乗ることが出来ます。

野球でいえば1軍、MLBでいえばメジャーデビューですね。

ちなみに、同時期に十両に昇進した、「寺尾」は同学年のライバルです。

 

しかし、新十両の場所を、4勝11敗と負け越して幕下へと陥落。

そして、再び十両に返り咲くまで2年の年月がかかりました。

1986年(昭和61年)5月場所、東幕下筆頭で4勝3敗と勝ち越し、7月場所に十両へ復帰。

さらに、その7月場所で11勝4敗で自身初にして唯一の優勝となる、十両優勝を果たします。

 

新入幕

一気に番付を上げ幕内入りが近づいた三杉里。

一進一退を繰り返しながら10場所が経過した、1988年(昭和63年)3月場所。

東十両2枚目で10勝5敗の好成績を残し、ついに25歳にして念願の幕入りを果たします。

優勝インタビュー

「駆けつけた信楽の応援団に、やっと恩返しができた」

 

新入幕で迎えた5月場所も、西頭13枚目でも9勝6敗の好成績を残し、幕内に定着します。

 

三役入り

初の三役入りは、新入幕からわずか5場所目。

1988年(昭和63年)11月場所で東前頭7枚目で9勝6敗。

前頭上位が総崩れとなり、一気に西小結まで昇格します。

新小結として迎えた1989年(平成元年)1月場所越し、3勝12敗と大きく負け越して力不足を実感したものの、5月場所には初の金星を獲得するなど徐々に力をつけます。

3年後の1992年、5月場所で東前頭筆頭で10勝5敗。

翌7月場所には西小結に復帰します。

ちなみに、この5月場所では、両大関の小錦・霧島、関脇・栃乃和歌、小結の安芸ノ島・水戸泉・武蔵丸を倒す活躍で、自身初にして唯一となる三賞、敢闘賞を獲得します。

さらに、7月場所では三役として8勝7敗で勝ち越しを決めて、9月場所では自己最高位となる東小結に昇格しました。

 

貴花田キラー

当時の貴花田には分が良く「貴花田キラー」と評され、貴花田が初優勝するまで初顔から5連勝している。

また、うっちゃり・突き落とし・巻き落としなどの土俵際の逆転技「三杉里マジック」で観客を楽しませた。

 

十両陥落

8年以上にわたって、幕内上位に定着していたものの、左肘の故障が悪化。

さらに右肘も悪くなり、四つ相撲で力を発揮することが出来なくなってきました。

1996年(平成8年)9月場所に、東前頭14枚目の位置で、7勝8敗と負け越してしまいます。

 

新入幕以来、52場所目にして十両へ転落します。

翌11月場所には、東十両筆頭で10勝5敗の好成績を残し、1場所で再入幕を果たすものの、1997年(平成9年)3月場所に、西前頭14枚目で4勝11敗と大きく負け越してしまいます。

 

再び十両に陥落した三杉里。

5月場所に西十両4枚目で9勝6敗、翌7月場所に西十両2枚目で9勝6敗と、十両上位で連続勝ち越しを決めたものの、幕内までわずかに届かず。

その後も紙一重の番付との戦いが続きます。

 

引退と700勝

連続勝ち越しで東十両筆頭という、勝ち越せば幕入りが確実となる9月場所。

わずかに届かず7勝8敗で負け越し。

翌11月場所に東十両3枚目で9勝6敗となり、翌1997年(平成9年)1月場所は西十両筆頭。

ここでも星1つ及ばず7勝8敗の負け越し。

 

翌3月場所は東十両2枚目。

ここで6勝9敗と連続負け越しとなって、翌5月場所は東十両5枚目で迎えます。

 

ここで4勝11敗と大きく負け越してしまい、東十両13枚目という、負け越せば十両から陥落してしまうという位置で迎えることになった7月場所。

すでに故障によって往年の力がなくなっていた三杉里は、9日目に破れて1勝8敗。

負け越しが決まり、幕下への陥落が決定的となりました。

この時点で三杉里の引退が事実上決まりました。

 

しかし、この時点で三杉里が積み重ねた白星が698勝。

すでに今場所限りでの引退を決意したものの、通算700勝を達成するまでということで、土俵に上がり続けます。

 

残り6日で2勝。

ここまで1勝8敗の三杉里には簡単な星勘定ではありませんでしたが、13日目に今場所3勝目となる、通算700個目の白星を獲得します。

 

そして、この取組後に引退を発表します。

相撲界では、引退発表後に土俵に上がることは横綱といえども許されておらず、引退が確定してさらに周囲もそれをわかっていた三杉里が通算700勝のために土俵に上がり続けたことには、当時批判的な意見もありました。

しかし、ボロボロになりながら最後まで土俵に上がり続けた姿は見るものを感動させるものでした。

 

現役引退後

7月場所で引退後、その2ヵ月前に制定されたばかりの準年寄制度を初めて利用して、準年寄・三杉里として二子山部屋の部屋付き親方となります。

1999年1月31日、両国国技館において断髪式。

2000年7月、年寄・17代濱風を襲名し、間垣部屋へ移籍。

2006年11月、年寄名跡を間垣部屋の五城楼に譲渡して日本相撲協会を退職。

 

年寄として停年まで角界に残り、自分の部屋を持つことを目標に準備をしていた濱風親方。

ところが、2006年に協会の新しい規定が設けられ、その人生設計が根底から崩れ去ります。

 

新しい相撲部屋を設立する条件として

最高位が大関以上

幕内在位が、60場所以上

三役在位が、25場所以上

のいずれかを満たすこと。

 

三杉里の最高位は小結、幕内在位は53場所、三役在位は3場所ですので、どの条件にも及ばず、部屋を起こすことが出来なくなってしまいました。

引退後に条件が変更されるというのは、納得しかねますね。

 

夢を実現させることができないことがわかった濱風親方(三杉里)は、角界からの退職を決めました。

「(家族は)嘆いていた」

「65歳(定年)まで相撲協会に残ろうと思っていましたから、悔しかった」

 

年寄株を取得するために多額の借金をしていた岡本さん(三杉里)は、角界に残る道を絶たれ、借金だけが残りました。

 

角界退職後

力士が引退後にやる仕事と言えば、まず思い浮かぶのが「ちゃんこ店」

元三杉里の岡本さんも、鎌倉でちゃんこ店を始めます。

 

同時に、整体師になるべく整体の専門学校に44歳で入学します。

中国への留学もして専門知識と技術を身につけた岡本さんは、2008年10月に東京都中野区に「健康回復館 三杉里のごっつハンド」を開業します。

 

「健康回復館 三杉里のごっつハンド」

頭痛・肩こり・五十肩・腰痛・ひざの痛み・全身倦怠・疲労・首の痛み・ひじの痛みを解消します。

東京都中野区中野2-28-3 1F

JR中野駅徒歩3分

11:00~23:00

03-3384-8448

 

三杉里時代のコネクションやネームバリューもあり、アスリートの常連も定着。

人気の整体院として、順調に経営が出来るようになりました。

 

三杉里の借金

借金返済も順調に進み、業務を拡大しようと、新橋に2店舗目をオープンします。

これで売り上げを伸ばすはずだったのですが、これが大失敗。

 

「ごっつハンド」は三杉里の個人的なネームバリューで人気となったのであって、逆に言えば、三杉里に施術してもらえないのであれば、「ごっつハンド」へ足を運ぶ必要はないのです。

新橋店のみならず、中野店の客足も減り、新橋店は閉店。

 

中野店に専念することで何とか売り上げを回復させることは出来たものの、新橋店の開店のために準備した費用は借金として残ってしまいました。

現在の借金額は

「簡単に返せるレベルではない」

 

現役時代のネームバリューによって売り上げを伸ばし、そのネームバリューによって客足の減る。

本当に経営とは難しいものですね。

 

現在は他に、ちゃんこ店も経営されて、少しずつ借金を返していくようです。

ちゃんこ茶屋三杉里

滋賀県草津市南笠東1-5-24

 

三杉里の奥さん・子ども

1990年(平成2年)、幕力士として定着してきたころに、結婚。

2人のお子さんを授かりました。

長男は、相撲の道には進まなかったものの、高校時代にはアメリカンフットボール部で活躍。

2010年に関東高校アメリカンフットボール連盟主催 スティックボール(オールスター戦)に出場したほどの選手です。

 

多額の借金を抱えながら再起を目指して頑張っている三杉里さん。

今後の活躍に期待したいですね。

 


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