加藤廣の死因・家族は?【「信長の棺」は小泉純一郎の愛読書】

本能寺の変を独自の視点で描いた「信長の棺」などの歴史小説で知られる作家の加藤廣(かとう・ひろし)さんが4月7日午前0時38分、東京都内の病院で亡くなりました。

87歳でした。

告別式は近親者で既に済ませており、喪主は妻、玲子さん。

お別れの会を行う予定とのことですが、日取りなどは未定ということです。

加藤 廣(かとう ひろし)

生年月日 1930年(昭和5年)6月27日
没年月日 2018年(平成30年)4月7日
没年齢 87歳
出身地 東京都
高校 東京都立新宿高等学校
大学 東京大学法学部卒

お医者さんだった父親が若くして亡くなり、ひとりっ子だった加藤廣さんは、母一人子一人の母子家庭で育ちます。

時は戦争の真っただ中という厳しい世の中でしたが、東洋英和女学院卒業で、英語も得意な戦前としては非常に進歩的な女性でした。

 

都立新宿高校から東京大学法学部へ入学。

東大法学部といえば、官僚へと進む人たちが多いエリート中のエリート。

しかし、加藤廣さんは、法曹界や官僚よりも、当時から文学への関心が強かったそうです。

 

大学卒業後は、中小企業金融公庫(現日本政策金融公庫)に就職。

調査部長などを歴任して、もうすぐ理事にもなろうかというところまで出世しながら退職してしまいます。

 

もっと効率的な業務が出来るようにと様々な改革を提案してきた加藤廣さん。

しかし、それまで続いてきた旧弊を打ち破るような行為であり、伝統をぶち壊そうとする加藤廣さんは、上司と度々ぶつかります。

あるときには、神楽坂の料亭に呼び出されて、公庫の幹部連中から吊るし上げを喰ったこともありました。

 

そんな保守的な体質に嫌気がさして、民間の山一證券に転職します。

山一証券では、経済研究所顧問を務めるなど手腕を振るい、やがて脱サラ。

経営コンサルタントとして独立しました。

やはり独立心旺盛な方だったのですね。

 

作家デビュー

加藤廣さんは、50歳を過ぎたころから、自分の人生を改めて振り返り、自分が生きた証のようなものを残したいと考えるようになったそうです。

そうして作家への道を志すようになりました。

 

当時の加藤廣さんは、純文学、現代小説は「社会の役に立たない」「意味がない」と批判的で、歴史小説を書こうと考えます。

仕事の傍ら、歴史関係の資料をかき集め、読みあさるようになりました。

 

やがて、コンサルタント業を廃業。

ついに作家として本格的に歩み始めました。

このとき、すでに60代半ばだったのですが、何かを始めるのに遅すぎることはないということですね。

 

作家になるには、段ボール箱一杯分の原稿を書かないとダメだと聞いて、毎朝3時に起きて、一心不乱に書き続けたそうです

そんな生活を10年近く続け、ついに2005年。

「信長の棺」を発表し、作家としてデビューを果たします。

このとき、加藤廣さん75歳。

高齢デビュー作家として話題になりました。

 

信長の棺

本能寺の変の背後に秀吉の謀略があり、秘密の地下通路から脱出しようとした信長の前途を封鎖させ窒息死させたとし、遺骸が見つからなかったのは、駆けつけた阿弥陀寺の清玉上人が隠したからだ-との大胆な新説を提示して大ヒットした歴史小説です。

当時の小泉純一郎総理が愛読書として推薦したこともあり、単行本と文庫を合わせると250万部も売り上げた大ベストセラー小説です。

「信長の棺」「秀吉の枷」「明智左馬助の恋」「本能寺三部作」と呼ばれいずれ劣らぬ話題作です。

 

その後、大阪経済大学客員教授も務めていました。

 

加藤廣の死因

2016年 加藤廣さんは、体調不良で大学病院に入院したことがありました。

このとき、状態は非常に悪く死を覚悟するようなところにまで追い詰められたそうです。

しかし、何とか危機を脱し、その後は食餌療法を続けながら快方に向かっていると思われていたのですが。。。

 

発表によると、加藤廣さんの死因は

循環器不全

心臓および血管系から各臓器,組織に対して必要な質および量の血液を循環することができない病的状態をいう。

症状は顔面蒼白,冷汗,体温下降,脈拍細小,血圧下降,嘔吐,失神など。

(参照:コトバンク)

 

2016年の入院時の病名まではわからなかったのですが、やはり何らかのダメージが蓄積されていたのでしょうか。

私も歴史小説は大好きなので、老いてなお名作を書き続けていた加藤廣さんの死は非常に残念でなりません。

心よりご冥福をお祈りいたします。


PAGE TOP