八田與一の妻はなぜ自殺したのか・烏山頭ダム建設は今も台湾人の心に残る

八田 與一(はった よいち)

生年月日 1886年(明治19年)2月21日
没年月日 1942年(昭和17年)5月8日
没年齢 56歳
出身地 石川県河北郡花園村
現石川県金沢市今町
学歴 石川県尋常中学
第四高等学校
東京帝国大学工学部土木科卒業
職業 水利技術者

1910年(明治43年) 東京帝国大学、つまり現在の東大を卒業した八田さんは、台湾総督府内務局土木課に就職。

当時の台湾は、1895年(明治28年)4月17日から、1945年(昭和20年)10月25日まで、50年間続いた日本統治時代の真っただ中です。

大規模なインフラ整備が台湾中で行われていました。

八田さんは、衛生事業で上下水道の整備から始まり、その後、発電・灌漑事業の部門に移り、水利工事で高い評価を受けていました。

烏山頭ダム

1918年(大正7年)

台湾南部の嘉南平野は、香川県とほぼ同じ大きさで、台湾全体の耕地面積の6分の1を占める広大な平野で、降水量も十分。

それでも、農業生産は非常に不安定でした。

その原因は、灌漑設備が不十分で、その広大な耕地は常に推理の問題を抱えていたため。

河川が中央山脈から海岸線まで一気に流れ落ちてしまうために、雨期は川が氾濫し、乾期は川底が干上がる。

そこで、八田さんは、官田渓の水をせき止め、さらに曽文渓から水を引き込んで、烏山頭ダムを建設することを計画しました。

満水時の貯水量1億5,000万トンは当時、東洋一の規模を誇り、

総工費5,400万円は、当時の台湾総督府の年間予算の3分の1以上にも及びました。

工事が完成したのは、1930年(昭和5年)4月。

ダムを満水にするために、40日も要するという巨大ダムでした。

八田與一の妻

1917年、八田さん 31歳のとき。

故郷である金沢の開業医で、石川県議なども務めた米村吉太郎の長女・外代樹(とよき)さんと結婚します。

美しい方ですね~。

このとき、奥様は16歳でした。

その後、ダムの完成を目指す八田さんを支えたのがこの幼い奥様でした。

お子さんはなんと8人もいたそうです。

1939年(昭和14年)八田さんは台湾総督府に復帰。

技師として最高の官位である勅任官待遇を与えられました。

やがて、太平洋戦争が勃発し、政情が不安定になっていきます。

そして、1942年(昭和17年)5月8日午後7時45分

陸軍の命令によって、綿作灌漑調査のために大洋丸に乗船していた八田さんは、五島列島付近でアメリカ海軍の潜水艦に撃沈されました。

6月13日、山口県萩市沖合の見島で遺体が発見され、7月16日に総督府葬をもって荼毘に付されました。

このとき56歳でした。

烏山頭ダムでは、八田さんの命日である5月8日には慰霊祭が行われています。

未亡人となった、外代樹(とよき)さん

終戦間もない 1945年(昭和20年)9月1日

外代樹さんは、黒の喪服に白足袋という出で立ちで、烏山頭ダムの放水口に投身自殺。

遺書には

「玲子も成子も大きくなったのだから、兄弟、姉妹なかよく暮らして下さい」と書かれていたそうです。

このとき45歳でした。

外代樹さんはなぜ自殺を図ったのか?

具体的な理由は明らかになっていません。

しかし、八田さんの功績が台湾で大きく評価されている反面、日本政府からは逆の見方をされていたことを苦慮していたという噂もあります。

ダム建設のための巨額な費用が重い負担となり、台湾統治に悪影響を与えたとして、ダム建設は国策ではなく、八田個人の暴走であると評価していました。

戦死した夫の後を追ったのは、そんなことが原因の1つだったのでしょうか?

多くの功績を台湾に残しながら不遇の死を遂げた八田夫妻。

しかし彼の偉大な功績は台湾の人々の心から消えることはありません。


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