許永中・イトマン事件の真実・逮捕後の人生と現在【日本再入国の可能性】

戦後最大の経済事件となったイトマン事件(1991年)で特別背任などの罪に問われた“財界のフィクサー”こと許永中氏(70)

戦後最大のなぞと呼ばれる事件と、許永中の逮捕後の人生と現在を追ってみました。

許 永中(きょ えいちゅう)

韓国名 ホ・ヨンジュン
通名 野村永中(えいちゅう)
藤田永中(えいちゅう)
生年月日 1947年(昭和22年)2月24日
出身地 大阪市大淀区(現・北区)
高校 大阪府立東淀川高等学校卒業
大学 大阪工業大学中退
身長 180cm
体重 100kg

在日韓国人である許永中

大学時代は、麻雀とパチンコに熱中し3年で中退します。

中退後は、不動産広告業者の秘書兼運転手として働く傍ら、経営について学び、日本人女性と結婚して日本への特別永住権を持っていました。

部落解放同盟の幹部と昵懇になり、大阪府の同和対策事業に食い込み、彼らと懇意になることによって許は裏社会で大きな力を振るうようになります。

1975年に休眠会社だった大淀建設を買収し社長に就任し、その後、暴力団山口組の宅見勝などとも関係を結びます。

全斗煥韓国大統領の実弟とも交友関係を持ち、韓国政界にも人脈を持つ、裏社会を暗躍するフィクサーでした。

 

イトマン事件

株式会社 イトマン

創業 1883年
創業者 伊藤萬助

大阪市心斎橋で羽州屋高田久右衛門から暖簾分けをした、「羽州屋」という繊維商店として設立しました。

その後、創業者・初代伊藤萬助にちなみ「伊藤萬商店」と社名を変更。

そして、「伊藤萬」

1991年1月1日には「イトマン」となりました。

1919年 2代目伊藤萬助(卯三郎)が社長に就任。

「天下のイトマン」といわれるほどの大会社に成長させました。

 

太平洋戦争後

住友銀行との強いつながりから、繊維商社として発展し、東京証券取引所、大阪証券取引所の1部上場企業として日本を代表する企業の1つとなりました。

しかし、1973年のオイルショックで経営不振に陥ります。

低迷するイトマンを再建するために、メインバンクの住友銀行から、河村良彦常務が社長に就任し、4代目社長の伊藤寛は代表権のない会長へと退きました。

この再建策が功を奏し、イトマンは総合商社として見事によみがえります。

 

イトマン事件発覚

経営再建中のイトマンですが、戦後最大の経済疑惑と言われるイトマン事件が起こります。

協和総合開発研究所の社長・伊藤寿永光が、仕手筋に融資していた200億円の貸金が焦げ付いていました。

資金繰りに窮する伊藤寿永光は、伊藤萬(イトマン)の経営に筆頭常務となり、住友銀行から融資を受けるようになります。

そして、その焦げ付いた資金の債権者の一人が許永中でした。

 

1990年5月
日本経済新聞が、伊藤萬(イトマン)の不動産投資による借入金が1兆2000億円に及んでいることをスクープします。

許永中は、住友銀行から送り込まれた河村社長に、美術品などの投資を勧めます。

河村の指示を受けた伊藤萬(イトマン)は、許永中の関連会社から、許永中所有の絵画などを総額676億円で買い受けます。

しかし、これは正当な価格での取引ではなく、鑑定評価書は偽造され、相場の3倍以上の法外な価格で取引されていました。

しかも、河村社長や伊藤は、不正な取引であることを知りながら、許永中との取引が続けられました。

メインバンクから送り込まれた社長に対して、物を言える人物は誰もいなかったのが当時のイトマンでした。

他にも、地上げ屋の経営、怪しげなゴルフ場開発などへ多額の資金を投入させた結果、住友銀行から伊藤萬(イトマン)を通じて裏社会へと流れた資金の総額は

伊藤萬(イトマン)本体から360億円

全体では3000億円以上

 

1991年元日

伊藤萬から「イトマン」に商号変更した当日、朝日新聞が、イトマンの絵画取引の不正疑惑をスクープしました!

記事によると、

西武百貨店から、関西新聞、そしてイトマンへと転売された絵画取引によって、その価格は25億円も高騰したとのこと。

その差額がどこへ流れたのかという疑惑を報じました。

このスクープがきっかけだったのか、ついに検察が動きます。

 

1991年7月23日

大阪地方検察庁特別捜査部は特別背任の疑いで、関係者6人を逮捕、起訴しました。

その中には、もちろんこの3人が含まれていました。

河村良彦

許永中

伊藤寿永光

 

2005年10月7日

最高裁が被告の上告棄却を決定。

これによりイトマン事件の刑が確定しました。

許永中 懲役7年6月・罰金5億円
河村良彦 懲役7年
伊藤寿永光 懲役10年

刑は確定しましたが、検察の必死の調査にもかかわらず、巨額の資金が最終的にどのように動いたのかは、ついに解明されませんでした。

 

事件後のイトマン

イトマンは事件により大きな打撃を受け、1993年に住金物産(現:日鉄住金物産)に吸収合併され、創業110年目にして幕を下ろします。

 

許永中が経営に関与していた企業のその後は、

関西新聞は、1991年4月に倒産。

近畿放送(KBS京都)も存続の危機を迎え、会社更生法を申請。

 

何とか存続を目指してイトマン事件関係者を排除したうえで、京都放送に商号を変更して再建に成功しました。

 

許永中の逮捕後

起訴後に6億円の保釈金を支払い保釈。

 

そして、1997年9月27日

妻の実家の法要のために10月1日までの予定で韓国に出国します。

この出国については、裁判所の旅行許可を得ています。

しかし、宿泊先のソウル新羅ホテルで倒れ、延世大付属セブランス病院心臓内科に入院します。

そして、病院から逃亡。

韓国への出国は逃亡のためだったのですね。

 

ちなみに、6億円の保釈金は没取されています。

 

その後、逃亡生活を続けていましたが、1999年11月5日

東京都港区のホテル・グランパシフィック・メリディアンで身柄を拘束されました。

 

2005年10月に実刑判決が確定した後に、母国である韓国での服役を希望します。

2012年12月、国際条約に基づき韓国へ移送。

こんなことが可能だったのですね。

 

在日の許永中は、日本の特別永住権を持っていましたが、韓国へ移送されたことで、その権利はなくなりました。

 

そして、刑期満了1年前の2013年9月30日

ソウル南部矯導所より仮釈放されました。

 

許永中の日本再入国はあるのか

 
本人は度々日本へ戻る意向を関係者に語っていますが、それは現在のところ難しいようです。

在日韓国人2世である許永中氏は、日本の特別永住者の資格を持っていましたが、服役を母国で行いたいという本人の希望を汲んで、日韓が締結する受刑者移送条約により韓国へ移送されています。

法務省担当者によると、これにより

「受刑者移送による出国は、再入国許可を取らずに出国していると判断され、特別永住者の資格を喪失する」

また、1年以上の実刑判決を受けたものは入国管理法により、日本への上陸拒否事由に該当します。

したがって、許永中が再び日本の血を吹くことは現在のところは不可能なのです。

しかし、日本に家族がいる人の場合は人道上の理由から入国が許可されるケースも多いようです。

問題は、許永中氏の再入国を許可した場合の世論。

これだけ世間を騒がせた男ですので、再入国を許可することには法務省としても相当のリスクを伴います。

結論としては、許永中の再入国の可能性は極めて低いと思われます。


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