平岡瑤子の家族・孫は3人・長男は放校処分【三島由紀夫を支えた賢女?悪女?】

日本文学界を代表する人気作家でありながら、割腹自殺によりこの世を去った三島由紀夫の妻・平岡 瑤子さんの人生を振り返ってみましょう。

平岡 瑤子(ひらおか ようこ)

生年月日 1937年(昭和12年)2月13日
没年月日 1995年(平成7年)7月31日 享年58
別名 三島瑤子
生誕名 杉山 瑤子
出身地 東京都文京区目白台
死因 肺真菌症による急性心不全
墓地 東京都府中市 多磨霊園
学歴 日本女子大学附属豊明小学校
日本女子大学附属中学校・高等学校
日本女子大学英文科中退
配偶者 三島由紀夫
子供 紀子(長女)・威一郎(長男)
杉山寧(父)・元子(母)
親戚 小松静子(叔母)

日本画家の杉山寧の長女として生まれ、幼少の頃より能に親しむなど文化的素養の高いお嬢様だったようです。

いわゆる良家のご息女ですね。

三島由紀夫との出会い

三島由紀夫と杉山瑤子さんは見合い結婚でした。

実は、三島由紀夫は、川端康成の養女・黒田政子さんとの結婚を断られたり、後の皇后陛下・美智子様(正田美智子さん)とお見合いをしたこともあるそうです。

当時はある程度の家柄の女性はそれなりに釣り合いの取れる家柄との見合い結婚が普通でしたので、自然な流れだったのでしょう。

大学2年生の時、叔母の友人が、瑤子さんの写真を三島由紀夫に見せたところ、三島由紀夫は一目惚れ。

三島由紀夫好みの「丸顔で可愛らしい」顔立ちであることを気に入ったようです。

しかし、大学2年生でお見合いなのですね。

そういう時代ということでしょうね。

見合いをした二人は食事の後に、三島由紀夫が青山のナイトクラブに誘ったようです。

そこでの振る舞いを見て三島由紀夫は、「遊びずれしていない女性だ」と判断し、ますます気に入り交際が始まったようです。

そこでイケイケに踊り狂ったりしていたら違う運命だったのかもしれませんね。

ここまで見ると三島由紀夫が積極的にアプローチしたようにも思えますが、実際は瑤子さんが一目惚れして積極的に嫁入りしたと語る人もいます。

 

三島由紀夫との結婚生活

その後、二人は正式に婚約。

瑤子さんは大学を2年で中退して、専業主婦となりました。

大学を中退して専業主婦ですか~。

これは格式にこだわる三島家の要請だったようで、この点に関しては、瑤子さんも学生結婚でもよかったのではないかと後に語っています。

当時の文壇でもこの結婚は大変話題となりました。

後の東京都知事・石原慎太郎氏のコメント

「三島さんが見合結婚なんて考えられない。
人の知らない間に、どこかで素晴らしいお嬢さんをちゃんと射止めていたんじゃないかな。
見合結婚というのもひとつの演出と思われるほどだ」

三島由紀夫は、求める理想の結婚相手について次のように語っています。

文学なんかにはちつとも興味をもたず、家事が好きで、両親を大切に思つてくれる素直なやさしい女らしい人、ハイヒールをはいても僕より背が低く、僕の好みの丸顔で可愛らしいお嬢さん、僕の仕事に決して立ち入ることなしに、家庭をキチンとして、そのことで間接に僕を支へてくれる人。

そして、瑤子さんとの結婚について、こんな話をしていたようです。

「三十三にもなつて、二十一の可愛い女房を迎へたのだから、嬉しい」

ひと回りも年下だったのですね。

3月23日に三島由紀夫が瑤子さんの写真を見てから、43日目の5月5日に婚約、70日目の6月1日に結婚というスピード婚でした。

1958年(昭和33年)6月1日、杉山瑤子と三島由紀夫は、港区元赤坂の明治記念館で結婚式をあげました。

媒酌人は、後のノーベル文学賞作家である、川端康成氏だそうです。

新婚旅行は、箱根宮ノ下の富士屋ホテルを皮切りに、京都、大阪、別府、博多を巡る日本縦断旅行。

当時としては豪華な新婚旅行だったようです。

 

1959年(昭和34年)6月2日には長女「紀子」が誕生。

1962年(昭和37年)5月2日には長男「威一郎」が誕生。

有名人であった三島由紀夫の自宅を訪ねて来るものは多く、瑤子さんはその対応もそつなくこなし、良妻賢母の務めを果たしました。

幸せな生活を送っていたように思えたのですが。。。。

 

三島由紀夫自決・その後

1970年11月25日、三島由紀夫は自衛隊市谷駐屯地で、益田兼利総監を人質に取り籠城。

バルコニーから檄文をまき、演説をしたのちに割腹自殺によりこの世を去ります。

運命の日、平岡瑤子さんは、乗馬の練習のために馬事公苑へ向う途中に自宅へ電話をかけます。

三島由紀夫に用件を伝え、「ああ、そうか」と三島由紀夫が答えたのが夫婦の最後の会話だったといいます。

夫の死後、平岡瑤子さんは、三島由紀夫の蔵書や遺稿の保存整理に尽力しました。

三島由紀夫が亡くなって十四年、わが家は家具も飾りも、庭にある例のアポロ像も、すべて昔のままです。

ただ、保護者がいなくなった心細さは、痛いほど感じます。
はだかで世の中に放っぽり出されたたよりなさ、と申せばいいでしょうか。

三島瑤子「三島家十四年の歳月」

 

1995年(平成7年)7月31日、肺真菌症の悪化により、入院していた東京女子医科大学病院にて、急性心不全で死去されました。

 

お嬢様ではなく姉御肌

女優の桑野みゆきに似ている

ライザ・ミネリに似ている

とも言われた平岡瑤子さん。

その育ちから「お嬢さん」というイメージがありますが、実は下町のガラッパチの姉御肌の女性だったという評判です。

ひと回り年上の夫・三島由紀夫にも、ズケズケものをいい、三島由紀夫の友人に対しても同じように接し、時には叱りつけるようなところもあったようです。

1977年3月3日、「憂国道志会」が、経団連職員を人質に取って立てこもるという経団連襲撃事件が起こります。

犯人が三島由紀夫を傾倒していたことから、平岡瑤子さんが犯人の説得に当たりました。

その際に、なんと電話で犯人を叱りつけ、現場にまで出向いて説得したというのですから、お嬢さんにはできない芸当です。

中には

「三島由紀夫の思想に最も影響を与えたのは奥さんの平岡瑤子さんだ」

と語る人もいるほどです。

 

嫉妬深い悪女だったという噂も

同性愛ではないかと噂されていた三島由紀夫のことを思ってか、三島由紀夫の交友関係にはかなり神経質であったと言われています。

女性の友人はもちろん、男性の友人、果ては三島由紀夫が可愛がっていた猫にまで嫉妬していたということなので、かなりのものですね。

さらに、三島由紀夫の死後。

自宅敷地内の和風屋敷に住んでいた姑の倭文重に対して、強引に立ち退かせて、世田谷区用賀の老人ホームへ入れてしまいます。

さらに、倭文重の住んでいた和風屋敷も取り壊すという徹底ぶり。

倭文重は三島由紀夫を溺愛していたと言われていますので、これも嫉妬のなせる業だったのでしょうか。

 

三島由紀夫・平岡 瑤子の子どもたち

長女

平岡 紀子(ひらおか のりこ)

生年月日 1959年(昭和34年)6月2日
年齢 2017年11月現在、58歳
出身地 東京都港区虎ノ門
学歴 学習院女子中・高等科
学習院大学文学部仏文科
職業 演出家

1990年(平成2年)9月24日、外交官の冨田浩司さんと結婚。
現在の名前は、冨田紀子さんです。

富田さんがシンガポール駐在時に、出産。

二女一男をもうけました。

三島由紀夫没後20年に、三島由紀夫の戯曲『葵上』『弱法師』の演出を手がけました。

 

長男

平岡 威一郎(ひらおか いいちろう)

生年月日 1962年(昭和37年)5月2日
年齢 2017年11月現在、55歳
出身地 東京都
学歴 お茶の水女子大学附属小学校
開成中学校・高等学校

映画の助監督、宝飾店経営、作詞家など様々な道を志しましたが、どれも大成せず、現在は一般人として生活しています。

偉大な父の血を受け継ぐことはできなかったという方も多いようですが、生前、三島由紀夫は威一郎を溺愛し、「僕は威一郎が可愛くて可愛くてどうにも仕方がない、本当に可愛いんだ」と語っていたそうです。


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